足の引っ張りあいを防ぎたい~私が中国拳法に勝負根性を持ち込まない理由

創造と工夫、心に明かりを
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さて、
中年会社員武術家であるJunoIwamiが稽古中に気を付けている点の一つとして
「勝負根性を持ち込まない」があります。

はて、「勝負根性を持ち込まない」とはどういう事?
勝負事の筈の武術の世界においては矛盾するのでは?と疑問を感じる方も多いと思います。

しかし私は、稽古に限って言えば、自分と相手の両方の足を引っ張らないために、そして正しい上達のため、勝負根性を持ち込まないという考え方は絶対に必要であると考えます。
言い方を変えますと、私は「勝負根性」を上達の阻害要因であると明確に位置付けているのです。

そこで今回は、後悔しない稽古のための大前提「勝負根性は不要である」に言及したいと思います。
一度しかない人生の時間をお互いに大切にしたい、そう思ったからこそ至った結論なのです

目次

<<相手に勝つのはとても簡単です>>

人は本能的に勝利を望みます。
そのため「勝ちたい」と思うこと自体はごく自然なことなので、これについては否定しません

ですが、稽古中にこれを持ち込むことには反対です
なぜなら勝負ごとにおいて相手に勝つのは非常に簡単だからです。
ルールを破る、これだけです。
身も蓋もありませんが、その効果の絶大さは人類の歴史を見れば数限りなく存在します。

しかもルールを破ること自体には大きな労力は必要としないため、簡単に勝利をつかめます。
加えて、人は簡単な方に流れてる習性があるため「楽に勝てるならそれに越したことはない」と繰り返しルールを破っていきます。
これは自分の胸に手を当てて考えてみれば、その経験を掘り起こすことが出来ます。

ですから、もし人が単に相手に勝つ方法を知ってしまった時
地道な稽古を放棄して、安易に勝利を手にする手段を手に取ってしまうのは仕方のない事です。

<<互いを高め合う稽古環境の阻害要因>>

二人一組で稽古をするときは、出来るだけ互いに高め合う環境を構築する必要があります。

そこでは互いを認め合い尊敬し、技を磨き、心身を鍛えることが目標です。
ですが、ここで勝ちたいという「勝負根性」が頭をもたげますと、状況は一変します。

相手に勝つために「ばれないように、ちょこっとだけルールを破る」のです。
意識的、無意識的は問いません、これはほぼ自動的に実行されます。
すると勝率はグンと上がります。ここで得た勝利という美酒は、たちまち目的(上達)と手段(自己満足)を入れ替えてしまいます。

勝利のために使う小手先のテクニックで、本当の目的である「高めるべき技術と鍛えるべき心身」を放棄し自己満足を得るための手段を駆使する事を選んでしまうのです。

<<何を目的として稽古をするかよく考える>>

この状況を箇条書きにすると以下のような状態です

<得るもの>
・自分の勝率が上がる。自己満足を満たす。モチベーションが上がる。
<失うもの>
・本来のルール(稽古方法)から外れているため、稽古による上達は望めない。
・反省点する機会が低下するため、自分の弱点を見つけられない。
・相手への配慮が欠けるため、相手を見ていない。
<相手への影響>
・相手側は何をしても「ルール外の反撃」を相手にしなければならない。
・いつまで経っても「そのルール(稽古方法)による上達」が達成できない。
・フラストレーションや不信感が溜まっていく

この上記の項目で問題となるのは、自分の上達が遅れる事ではありません。
相手の上達が阻害されるのが一番の問題です。

これは由々しき問題です。相手あっての稽古なのにもかかわらず、組んだ相手の上達が阻害されてしまうのです。

折角の稽古ですから、その目的を見失ってはいけません。お互いを高め合うのです。
心掛けひとつで自分はもちろんの事、相手の上達にも影響してしまうのです。

ですから私は、「勝ちたい」という勝負根性を抑え込み、そのうえで全力で稽古を行うのです。
そうすることで、お互いに一定ルールの中で動きが洗練され、それに対する正しい対処法を身に着けることが出来るのです。

お互いが、お互いのためを思って行う稽古でありたい。小さな勝利を求めるだけの足の引っ張り合いはやりたくない。
私の考えの一つである「勝負根性を持ち込まない」は、こうした根拠や理由によるものです。
その上達は、自分一人ではなく、相手あってこその尊い向上なのだと私は思うのです。

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立ち止まっても倒れても、また人は歩き出す  岩見より

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