思い込み~整いすぎてもやりにくい

創造と工夫、心に明かりを
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さて、以前の投稿内容にも少し重なるのですが

「整勁」という考え方があるようです。
整った「勁力」ですか。確かに重要です

もし私がはじめにこの単語を聞いたのなら
その受け取った時の印象そのままに、出来る限り整えようとする筈です
「現時点における、自分の思考の及ぶ範囲で最大限の整理(最適化)」を行うと思います。

こうすることで今までバラバラであったものが整い、
力の経路が出来て、強い力が出る土台が出来上がる
そう思うのが当たり前です。

それに「思考の及ぶ最大限」で取り組むことは良い事です。
その努力は美徳です。とても素晴らしいことだと思います。
このように効力的にも道徳的にも良い事を示しています。

しかし私は、部分的な工程はありますが、全面的に肯定することが出来ないのです。
なぜならその前の「自分の思考の及ぶ範囲」であることに引っ掛かりを感じるからです。

どうしてか?
おそらくですが、ここに過剰な思い込みが入る恐れがあるからです。
人は一生懸命になるほど視野狭窄になり、その思いが強いほど目的に縛られてます
そうなると「いつ、どこに、どうやって、どの程度」力を整えるか、ということまでは
考えが至らない可能性が増えていきます。

「思い込み」は非常に厄介です
抱えていると、その人が本来持っている自由で快活な可能性を潰します
今回の整勁の場合、整いすぎて、溜まってしまうのです。
上の文章で言うと「どこ」と「どの程度」のバランスが崩れるだけでなく
「どうやって」さえも見失うおそれもあります。

そのため、こういったときは、緩みます。
緩んで、通りを良くするのです。
通りを良くする対象は「力」です。力が体の中をスーッと通っていくようにします。

たとえて言えば、緩めることで整えた流路に適合した水や血液を作り、流していきます。
思い込みが激しいままですと、水を流しているつもりが、
泥やマグマが通ってしまい、自分の身体に悪影響を及ぼします。

そうならないようにするには、緩ませるのが一番早いし効果的です。
緩ませ方は、ねじったり、さすったり、震えたりといろいろです。
犬が体についた水滴を切るようにブルブルと震える、と言えばイメージしやすいでしょうか

本来の意味での整勁はこういった緩ませるといった意味合いも含めているのだと思いますが
それさえも「思い込み」で潰れてしまっている可能性があるため
別の取り組み(運動)を行うことで
思い込みといった心理的な要素も緩めていきます。

いずれにしても整えるばかりではなく
あえてそれを崩して、下品にさえ見えるほど緩めておく方が、
返って整えやすい環境に自分を置くことにつながると思います。

世間一般では
まじめな人ほど思い込みが激しいと言われています。
私はどうなのでしょう?

もっと肩の力を抜いて、
激しさと真摯さをバランスよく感じながら、
自分の体に取り組もうと、そう思います。

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立ち止まっても倒れても、また人は歩き出す  岩見より

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