自分を嫌いたくないからこそ選んだ途中脱落~心の学び場2021年

「心の学び場からの途中脱落」という選択をしました。
不本意な選択ですが仕方ありません。

心身の安全と健康のため、自らの誇りを守るためという切実な思いもありましたが、最大の理由は自分を嫌いになりたくないというものでした。

心身ともに絶不調が続く中、最終講義という「仕上げ」を残すのみとなった心の学び場。
もし参加したら「あること」をやってしまいそうになる自分を感じた時、限界だと判断しました。

それをやってしまったら、自分を許せなくなる
「せめて自分だけは自分を嫌わないように」

そんな心の声が聴こえたとき、わたしは「心の学び場」から脱落することを選びました。

この話は前回の記事の続きとなります。
本記事でも概要は説明しますが詳しい状況についてはリンク先をご覧いただけると幸いです。

挫折、脱落、ドロップアウト
他人から見たらそのように映るかもしれません。

事実、わたしは最後まで頑張り切ることが出来なかったのですから。

それでも自分を嫌いになるよりもはマシです。

途中脱落によって心身をこれ以上傷つける状況から逃れられました。
同時に誇りを守ることにもつながったのだと今は感じています。

この記事が、いつかどこかでわたしと似たようなことで苦しむ人の助けになることを願います。
同時にこの記事が誰の役にも立たないことを祈ります。

そんな願いと祈りを込めてここに書き記します。

心の学び場での集団モラハラ

2021年、心理学やカウンセリングそして自分自身の生き方を学ぶために某所(本記事では「心の学び場」と称します)の講習会に参加しました。

そこでは「心理的安全性」「安心安全の場」を掲げています。

そんな場所で参加者による集団でのモラルハラスメントに相当する行為を受けました。
それによってわたしは心身の変調を起こしました。
(詳細については前回の記事をご覧ください。)

のべ30人を超える人たちから
一回当たりの時間は最長で3時間40分
期間にして4ヶ月
集団の中でただひとり、つるし上げられ続けました。

”そのままの君で良いよ”と言いながら
「変だ!おかしい!ありえない!」と連呼され続けました。

”みんな君の味方だよ。誰一人見捨てないよ”と言いながら
誰も助けてはくれませんでした。
相談すると「言う側の気持ちも考えてほしい」と諭されました。

”風の時代だから”
”どんな意見も受け入れるよ”と言いながら
一方的に価値観を押し付けられる私をみて、笑いながら放置していました。
わたしの意見は無視、却下されました。

指さされ
嘲笑され
否定される

父親から譲り受けた大切な腕時計。
それをを否定され、バカにされ、挙句の果てに壊されそうになることは本当につらかったです。

健康のために選ばざるを得ないこともさんざんに嘲笑されました。

心臓に痛みが走り
頭は割れるように痛む
内臓は機能が低下していきました。

人と会うことが怖くなり、オンライン、オフライン(リアル、対面)問わず人と会うことができなくなりました。

それでも諦めたくないという思いから講座に参加していましたが、エスカレートする集団モラハラによって体調は悪化の一途をたどります。

講座内容を把握できる体調ではなくなり日常生活にも悪影響を及ぼしました。

もはや心理的安全性も安心安全な場も感じられません。
この話はそうした状況から始まります。

心残りは最終講座

このままでは体調悪化がさらに酷くなるのは目にみえてました。

賢明な人なら講座からさっさと離脱するでしょう。

しかし離脱するには心残りがありました。
それはまだ最終講義が終わってないこと。
ここで離脱すれば途中脱落ということになります。

今まで本当に真剣に学んできました。

下世話な話ですがお金も多く使いました。

わたしは個人で参加しているため、受講料金(何十万円という金額)はすべて自費負担です。
会社命令で参加し費用も経費でまかなえる状況とは違います。

受講料だけでなく月に一度の講座後に行われる懇親会費や往復の交通費、別途イベントなどを合わせると相応の大きな金額になります。

経費で落ちるわけではないため、懇親会の都度わたされる領収書はそのままゴミ箱行きです。

一介のサラリーマンが支払うには負担の大きな金額です。
それでも支払い続け、参加し続けました。

時間も相応に使います。
次回の講座までにこなさなければならない宿題も出るため、それらをクリアするために時間を使わなければなりません。

課題図書の通読とレポートの作成
カウンセリングセッションの自主トレーニング

本業の合間や可処分時間を使い、そうした宿題の処理もこなしていきます。
また前回の記事でも紹介しましたが、他の受講者のために読書会を複数開催していたため使った時間は人より更に多いと言えるでしょう。

そして費用も時間もかかることを継続するには情熱が必要です。
「やりきる」という気持ち、その先に願うことを見据えて邁進する心の熱を燃やしていくことが必要です。

それを3年間、取り組み続けました。

費用、時間、情熱。
相応の要素を質、量ともにつぎ込んできました。

特に今回は様々な学びの集大成として臨んだものです。

2007年から模索を始め
2011年から本格的に学び
2014年から集約し始めてきたこと
その集大成

単純にあきらめたくないのです。
それだけに離脱(脱落)してしまうのはとてもとても悔しい。

まるで集団モラハラに負けたようで心底イヤです。
しかし体調の悪さはどうしようもありません。

葛藤しました。
来る日も来る日も葛藤しつづけました。

夢も未来も描けない

ここで心の学び場の最終講義の内容に少し触れます。

心の学び場での最終講義は夢と未来がテーマになります。
夢や未来を描いた作品を持ち寄ってプレゼンテーションするというものです。

思い描く夢、こうした世界を作りたい。
そんな願いと未来を作り伝えるのです。

しかしわたしは数ヶ月にわたる集団モラハラ(モラルハラスメント)によって自己疑念が強くなりました。

その結果、夢も未来も描けなくなりました。

家族への敬愛、親愛さえ否定された
(家族愛への否定、家庭への侮辱)

健康のため選んだことも笑われた
(命に近い取り組みへの嘲笑、健全な生活への否定)

アイデンティティの根源に近い部分に多くの否定と嘲笑を浴びせられた
自分の原点を否定され続けた。

その夢は本当なのか
その未来は誰にも望まれていないのではないか
自己疑念のループから抜け出せません。

仮に夢や未来が描けたとして、次はその作品を否定を繰り返してきた人達の前で発表しなければなりません。

そうした人たちが、わたしの夢や未来だけは否定せず応援することがあるでしょうか。
そんな都合の良い未来は想像出来ません。

わたしの夢は、願う未来はなんだったのか。
思い出し、描こうとするたびに集団での嘲笑と否定が頭の中を駆け巡ります。

夢や未来を描こうと用意した大きく白い紙を前にして、わたしは立ち尽くしていました。

参加した場合を想像してみる

今のわたしでは夢や未来を描き出すことができないことがわかりました。
そのような状態でも最終講義に参加することは可能であると講座の主催者事務局からは連絡を受けました。

最終講義に参加したらどうなるか。
試しに参加した場合をシミュレートしようとしました。

今まで頑張ってきたことを無駄にしたくない。
未来のために最終講義は参加したい。
自分の行く道と未来を信じたいという思いがありました。

グッド(良好)、ノーマル(通常)、バッド(悪い)の各パターン
それぞれの想像の中で納得できるものがあれば、夢や未来を描くことができなくても参加する意味を見出せるかも知れない。

そんな希望的観測にすがって最終講義に参加している自分を想像します。

グッド(良好)パターン〜想像できず

想像できませんでした。

ノーマル(通常)パターン〜耐えられそうにない

「耐えられそうにない」というのが正直な感想です。

この最終講義は2泊3日の合宿形式です。
ここまで学んできた人たちと共に昼夜をすごすことになります。

通常の講座は都度解散のため、講座が終われば帰宅することが出来ます。
しかし最終講義は合宿形式であるため帰れません。

わたしを否定し続けてきた人達と2泊3日寝食を共にすることになります。

「変だ」「おかしい」「ありえない」
「変だ!「おかしい!」「ありえない!」
「変だ!!」「おかしい!!」「ありえない!!」

ここ数か月で繰り返し耳にした否定と嘲笑の数々が頭の中をめぐります。

わたしがどれだけ説明し訴え続けても聞き入れることをしなかった人たち。

その状況に2泊3日も滞在する。

「…ああ、耐えられそうにない。」

素直にそう思いました。

被害妄想かも知れませんが、わたしからすれば事実に基づいた推測(妥当性のある判断)として「あり得る未来」です。

バッド(悪い)パターン〜考えたくもない

悪いパターンなど考えたくもありません。
ノーマルパターンさえ「耐えられない」ありさまなのです。

結局、シミュレーションでは参加に傾く気持ちは得られませんでした。

「自分をキライになりたくない」から不参加を決めた

冒頭にも書きましたが、最終的に不参加を決めました。
その理由は「自分をキライになりたくないから」というものです。

この理由が出てきた経緯は後に説明します。

そして不参加を決めたということは集団モラハラに対して心が折れ、負けたことを意味します。

わたしはそれでも良いことにしました。
敗北を甘んじて受け入れることにしました。

講座に参加している他の人がどれほどわたしを否定し嘲笑しようとも自分だけはそうならない。

わたしはわたしの味方であり、わたし自身を好きであり続けるし、そうしたい。

正直で切実な内から湧き上がる思いをくみ取り、選んだ結果が不参加(脱落)です。

不参加の決め手は魅力的なアイデアと共に

「自分をキライになりたくない」

最終講義への不参加を決め手となった心の声
それは突然湧いてきた魅力的なアイデアが始まりでした。

「最終講義に参加してさ、他の参加者の夢や未来を徹底的に否定してみるのはどうよ?」
自分自身の心の声です。

今まで自分がやられてきたことを別の形でやり返す。
実に魅力的です。

相手が集団によるモラハラでわたしの大切な価値観と取り組みを否定するなら
わたしはロジカルに相手の夢と未来を否定する。

目には目を歯には歯を、否定と嘲笑には相応の返礼を。

やったからにはやられる覚悟はあるのだろう、「ない」とは言わせない。
言わせてなるものか

復讐するは我にあり

目を輝かせて夢と未来を語る相手を徹底的に完膚なきまでに否定する。

「ガコン!」と
音を鳴らして心の天秤が参加側に傾きました。
それほどまでに魅力的なアイデアでした。

攻撃性を正当化するな〜あり得るからこそ否定する

「くそったれ!」
我に返り魅力的なアイデアを否定しました。

自分自身の持つ攻撃性を発揮する。
それは十分にあり得ることです。
あり得るからこそ否定しなければなりません。

あらためて自分に問います。
今の状態で参加したらどうなる?

最終講義に参加したらわたしは相手を否定する。
確実に、完膚なきまでに叩き潰すでしょう。

実行している様子は生々しいまでに想像できました。
だからこそ心底イヤでした

否定されて苦しいからと、意趣返しとして人にやり返して笑うような人間にはなりたくない。
精神の未熟さを棚に上げて攻撃性を正当化してはならない。

そんな当たり前の倫理道徳の観念さえもぼやけた自分。
「相手の夢や未来を完膚なきまでに否定する自分」を感じた時、心がもう限界だと判断しました。

「参加したうえで相手を否定せずに肯定し続ければいいのでは?」
そういう人もいると思う。

しかしその意見は他人だからこそ言えること。
当時のわたしには無理です。
(そして2022年6月のわたしにも無理です)

大切な価値観や取り組みを集団で否定し嘲笑され続け、心の痛みと体の不調に苛まれ続けました。

その心の学びの最終講義で、否定を繰り返してきた人たちの夢や未来を肯定できる気力と体力は残っていませんでした。

わたしはすでに消耗しつくしていたのです。

自分自身の心の声に従う

心の学び場での「仕上げ」にあたる最終講座を前に、わたしは脱落することを決めました。

表向きは「体調不良が続くため」ということにしました。

理由のひとつではありますがすべてではありません。
本当の理由は自分の心の声に従ったため。

自分自身の味方であり続け、自分自身を嫌わず、誇りをもって胸を張って志高く生き、死ぬためにわたしは選びました。

心の学び場では大切な価値観や取り組みを否定されてきました。

過去の痛みがあったからこそ芽生えた優しさも
家族への敬愛や親愛も
健康のための取り組みも
否定されました。

だからといって他人を否定して良い理由にはなりません。

夢や未来について目を輝かせて語る人たち。
それを否定してしまったら、わたしは自分自身を許せなくなり嫌いになるでしょう。

自分だけは自分を否定しない存在になろう。
好きで居続けられるかはわからないけど、自分自信を嫌わないように生きよう。

「せめて自分だけは、自分自身を嫌いたくない」

この選択こそが自分自身の誇りを守り、心身への被害拡大を防ぐことにつながったのです。

伝えたいこと~もしもその環境が苦しいのなら全力で逃げよう

もしも今いる環境が苦しいのなら全力で逃げてください。

心を摩耗させる環境だと感じたらすぐに逃げた方が良い。
言い方を変えると「さっさと相手を見限る」ことです。

逃げないことは尊敬しますが、それは同時に自分の心を殺す選択を続けていることになります。

心は生きるための柱です
体でいう背骨です。
折れたら早々に治ることはありません。

逃げる選択ができない状況もあるでしょう。
難しいかもしれませんが、なんとかして逃げ道を模索してください。

立ち向かうことに意義を見出す人もいるでしょう。
そうした感情や葛藤は心に活力がある場合に限ります。

心が傷つき消耗し続けると意欲も気力も失います。
そうなっては逃げることも立ち向かうことも出来ません。
(わたしは実際、夢や未来を描くことができなくなりました。)

毎日を消耗の中で過ごす中で、やがて世界に居場所がないと感じるようになります。

相手はあなたのことを慮ってはいません。
毒を吐いているという自覚すらありません。

だから逃げてください。
それは誇りにつながる撤退です。

そして養生してください。
回復したあとに振り返ってみて、はじめて自分の選択を検証することが出来ます。

人生は自分のものです。
心も自分のものです。

傷つき、恐れ、病んでしまうには相応の理由があることを忘れないでください。

心理学や心の学び場では他罰を禁止し自罰に意識を向けさせます。
投影という便利な言葉を使い「すべては自分が招いたこと」として処理しようとします。

また困難を試練と称し、自らを成長させる糧であるから逃げるなと言ってくるパターンもあります。

真に受けなくていいです。
全て無視してください。

そうしないと心が壊れます。

これらの言葉や解釈は部分的には適合しますが絶対の真理でもなんでもありません。

あなたにはなにも非はないのです。
心理学の根拠とか成長の糧とかどうでもいいのです。

そうした考え方に巻き込まれて大切な価値観や命の活力を否定し汚染させる意味はどこにもありません。

命は健全な心があってこそ十全に機能します。
悔しさや痛みが成長の糧になるのは「余力」を自覚した時です。

繰り返します。

逃げてください。
それは誇りある撤退です。

そして養生してください。
回復したあとにまたゆっくりと歩き始めればいいのです。

わたしは逃げずに立ち向かいました。
その代償は心身の変調として現れ、夢や未来を描けなくなったという現状です。

あまりに寂しく悲しい、虚しい現状です。
正直、さっさと見切りをつけて離脱すればと後悔している面もあります。

この事実、この痛み、この実感を学びとして2021年の学びを締めくくることとなりました。

長々と書いてきましたが、わたしがこの記事で言いたいことは結局は「逃げろ」の一言なのかもしれません。

この記事がいつかどこかで、わたしと似たようなことで苦しむ人の助けになるように願います。
同時にこの記事が誰の役にも立たないことを祈ります。

そんな願いと祈りを込めてこの記事を終わりにします。

<関連リンクです>

・(準備中)心の痛みを相談した結果、体調不良が悪化した
・(この記事です)自分を嫌いたくないからこそ選んだ途中脱落~心の学び場2021年