武術家が流した涙の訳~師匠と弟子の奇妙な関係は独特の価値観があります
photo credit: Gatto Mimmo via photopin cc
創造と工夫、心に明かりを
———-
中年会社員武術家JunoIwamiは「正宝内家拳研究会」という中国拳法の教室を主宰しています。
この教室を運営して長い月日が経ちましたが、一度だけ、人がいないところではありますが、稽古において涙を流した事があります。
当時、青年会社員武術家であったJunoIwamiが流した涙の訳
その涙は、今まで生きてきた人生でトップクラスの「綺麗な涙」でした。
私の師である馮正老師の一言が、私の胸と目頭を熱くさせた事実
そんな弟子側から見た、普通の生活形態とは違う「先生と私」という視点の話です。
●1.名前を呼ばない理由
●2.稽古場のひとコマ
●3.ある日、名前を呼ばれて
●4.自室にて静かに涙を流す
目次
<<●1.名前を呼ばない理由>>
中国拳法のような昔からある「伝統芸能」の世界では、少し普通とは違う価値観があります。
例えば、私は馮先生に長らく名前を呼ばれたことがありませんでした。
そしてそれについて特に違和感なく過ごしていました。
「名前」というものは、その人個人が持つ情報として最も前面に出てくるものです。
それを全員ひとまとめにして「あなた」という二人称で済ます。
私も例外ではありませんでした。
こう呼ぶ事にはさまざまな意味があるのですが、ここでは省きます。
いずれにせよ、こうした事も「ちょっと普通と違うルール」の一つなのです。
とはいえ、馮先生の場合はお弟子さんの数が多すぎて覚えきれないという理由もあったのかもしれませんが、そのあたりはあまり突っ込まない方が良い気がします。
<<●2.稽古場のひとコマ>>
馮先生がその卓越した技で私たちを面白いように転がしまわっていた頃、型の練習も馮先生が2~3回手本を見せて、後は号令に合わせてその動きをトレースしていくという内容でした。
この教室を立ち上げてからもその方法は変わっていませんでしたが、
ある頃から「はい、じゃあ、『あなた』ちょっと前に出てやってみて」」と呼ばれ、時々ですが皆の前で手本をしめすようになりました。
そんな事についても「まあ、こんな日もあるだろう」と
疑問も持たず、淡々と受け入れ、稽古を続けていました。
<<●3.ある日、名前を呼ばれて>>
そんなある日の事、いつものように先生の動きを頭に入れ、それをトレースするように稽古を続けていると、不意に目が合いました。
ああ、次の手本で呼ばれるのだろうなと思っていて、それはそのまま当たりました。
「はい、じゃあ、『岩見さん』。前に出てやってみて」
…
……
一瞬、耳慣れない音だったので、反応が遅れました。
「はい」と返事をして
何食わぬ顔で手本を見せて
いつものように稽古を続けていきました。
誰が何と言おうと、手は震えていなかったとと思います。
普通に稽古を続けていたと思います。
●4.自室にて静かに涙を流す
稽古が終わり、自宅に戻りました。
椅子に腰かけながら稽古を振り返ります
「ああ、俺、今日、名前呼ばれたんだな」
しみじみと口に出して言ってみます。
今まで「あなた」という呼ばれ方に特に疑問を持たず、
名前を呼ばれるのは馮先生が主催する武当拳法協会の古参の方々くらいなもので、別世界の話と思っていました。
「名前を呼ばれる」ただそれだけです。
日常的に呼ばれ、誰もが普通に受け入れるその一言が、近年稀にみる程の熱を胸に灯します。
目頭が熱くなり、僅かに涙が滲みます。
「嬉しいものだったんだな、名前を呼ばれるという事は…」
出会ってから3年近く
思わぬタイミングで出てきた初めての一言に
暫くの間、自室で静かに嬉し涙を流していました。
<<先生と弟子という関係>>
先生と弟子という関係はなかなかに説明が難しく、普通の関係とは違うものです。
家族とも、友人とも、職場の仲間とも違う関係
本当に説明に困る関係です。
ただ教え、教わるという単純な関係ではないのも確かです。
そんな師弟、先生と生徒という関係も始めから完成しているのではなく
ひとつひとつの出来事を重ねて、少しずつ変化していきます。
名前ひとつ、呼び方ひとつ
とても些細なことですが、こうして感情を揺さぶってくれる。
そんな関係がある世界。
皆さんの目にはどのように映るのでしょうか