ゆずるやさしさと受けとる勇気が人の足を進ませる~ニャチャンの道路を渡れた時に感じたこと
人が踏み出せないとき、そこには様々な理由があると思います。
がんばって踏み出そうとしてもできないときだってあると思います。
そういうとき、ちょっと立ち止まって深呼吸して周りを見る
意外と何とかなる兆しが見つかるかもしれません。
今回はそんな話です。
ニャチャン到着から一夜明けました。
外に出て買い物をする必要があったので、どうしても道路を渡る必要があります。
昨夜は出来なかった「道路をわたる」事を出来るようにしよう。
一晩休んだから体調も万全
今日こそはやってやると思って外に出ました。
結果的から先に言うと、わたしは道路を渡れました。
道路を渡り、水を買い、再び道路を渡ってホテルに戻ることができました。
実はこの結果はわたしが頑張ったからではありません。
周りの人が協力してくれたのです。
エイヤッと踏み出す自分の中の勇気より
どうぞ、とゆずり合う人からの優しさ。
もし自分の中の勇気ある行動をあげるとすれば、それは人から示された優しさを素直に受け取ったことだと思います。
だからこそでしょうか。
今回の件は達成したという感覚より、あたたかさを強く感じました。
目次
迷いの中で気づいたゆずってくれる優しさ
昨夜は見えなかった消えかけの横断歩道の前に立ちます。
相変わらずスクーターをはじめとしたバイクが3,4台併走しながらビュンビュンと走っていきます。
どうにも踏み出せません。どうしても迷ってしまいます。
「どうしたものかなー」と思っていると、数台のバイクが速度を落としてくれました。
先頭のバイクに乗っている女性はにこやかに笑っていました。
続くバイクに乗っている人たちも「しょうがねーなー」みたいな笑顔でした。
どの人もこちらを見ています。
「カム・オン」
ベトナム語で「ありがとうと」言いながら足を踏み出しました。
その足で、道を渡りました。
優しさを受けとることも勇気といえる
ああ、なんだ。
ちゃんと向こうだって気がついてくれいたんじゃないか。
にっこり笑ってゆずってくれていたのだ。
それに全然気がつかなくて
余裕のない振りして行為を受け取っていなかったのは自分だったのだなって思いました。
その優しさを受け取って
こっちも笑いながら「ありがとう」と言えば
足を進ませるのは全然怖くありませんでした。
わたりきって振り返ってみて
なんか今までの「楽しさ」とは別の感覚を覚えました。
「受け取ること」
打算とかルールとか、そんなの関係なくてただ受け取る。
相手の意志や行為をそのまま受け取る。
自分で張り巡らせたバリアのような気持ちを解いて受け取る。
これもまた勇気なのだと思いました。
ルールの外にある人の心
日本では交通ルールがガチガチに固まっています。
そしてそれを守ることが当たり前です。
ベトナムは日本に比べると交通ルールがゆるいように見えます。
そうした意味では法律で守られている感じが薄く、危険性は高いと言えます。
しかし、そんなゆるいルールだからこそ出てくるものがあります。
それはゆずり合いの精神であり
余裕のある笑顔です。
ガチガチのルールの中で一秒でも早く到着することを目的とするより
ちょっと立ち止まって周りを眺める余裕をもち
お互いゆずり合いながら自分の方向に進んでいく。
自由で、混沌としていて、だからこそ生まれてくる優しく心地良い距離感。
道路事情は、そのままベトナムに生きる人の精神性と行動の現れのような気がしました。
やはり異文化。
今の日本では感じなかったこと
ゆずる優しさと、受けとる勇気が生み出す自分の中の変化。
道路を渡るという何でもない行為の中で、わたしはとても多くのことを感じ、学ぶことができました。
<前の日の道路をわたれなかったという記事です>
バイクが多すぎて道路がわたれない?ニャチャン初日で異国に来たことを実感した